2016年1月17日日曜日

被害者を責めて自己責任論を唱える人には「ストレスの隔離」という心理が働いているらしい

どうして痴漢された話は「自慢話」になるの?
エリコちゃんミカ先輩こんにちは、いつも楽しく拝見しております。私は最近
インターネットでとてもストレスに感じていることがあります。それは、痴漢
被害に遭った女性やその告白に対する男性全般の「露出度の高い服を着ている
女性の方が悪い」という自己責任論的な意見や、勇気を持って告白しても「や
れやれ、痴漢されるほど魅力がある自慢かね」と茶化されるような風潮です。
言うまでもなく、痴漢されるのは嫌なことです。なのに、どうして「つらかった
ね」「悲しかったね」というような当たり前の反応がないのでしょうか。
男性は、あまねく痴漢とその仲間しかいないということでしょうか?
(東京都・キヨミさん)

予期できないことやその人に責任のないどうしようもないことまで、なぜかその人の責任と位置づけられ、勝ち誇るネット民…。
この自己責任論が発生する構図には、「ストレスの隔離」という目的があるのではないかと専門家の間では囁かれているわ。
ストレスの隔離とは…。
たとえば「何もしてないのに殴られた」と言ってる人が
いたらあなたはどう思う? かわいそう、同情する、
共感してしまってつらい、助けてあげたい…。
こういうふうに、ひどい目に遭ったり理不尽な目に遭った人に共感したり同情するのは、それ自体心に負担がかかることなの。
カウンセラーならお金を取るぐらいですしね。
自分に何かしてあげられないのか? もし被害に遭ったのが自分だったら? そんな理不尽なことが許されていいのか?
このときに生まれた悲しみ、恐怖、怒りといった感情はごった煮にされて「なんか嫌」という感じで処理される。
その「なんか嫌」を解消するために人はどういう手段を取るかというと…。
「殴られた側」という、共感すると心理的に負担がかかる対象から距離を取るために、あえてそれを批判する側に回るの。
心ない人になれば心が痛まなくて済みますからね。
これが「自己責任論によるストレスの隔離」の原理。
これ、ちょっと前の記事なんだけど、度々この記事を思い出したくなるときがあるのに探すのに
苦労するので、ここにメモっておこうかなと。

なんか度々ネット上でもこの「被害者を責める」っていう現象が発生してるんだよね。
ごく最近の例でいうと、長野県軽井沢町のスキーバス転落事故で犠牲になった方の母親が、
「学生が格安のツアーを選ぶのは自然なこと。格安でも満足できる旅行を提供してほしい」
って言ったら、なぜか学生になぜそんな格安のバスツアーを選んだ、選んだ学生が悪い的な
ことを言い出す2ちゃんねらーとかね。いや、イラクやシリアに自ら行って殺されるバカどもに
自己責任論を唱えるのは私もその通りだと思うんだけど、さすがにスキー・スノボの格安ツアーを
選んだ学生に自己責任論を唱えるのはどうかと思うよ。結構普通の選択だからね、それ。

まぁ何が言いたいかというと、被害者に自己責任論を言い出す気持ちはわからなくはないんだけど、
その時に、それが「同情することへの心理的負担からくる自己責任論によるストレスの隔離」現象が
生じていないか、自分の胸に手を当てて確認をするワンステップは必要だと思うのよ。原理が把握
できれば、反応を選ぶことが可能になるからね。response+ability(=responsibility:責任)ってやつですな。

ちなみにこの記事を探していたら副産物で見つけたんだけど、被害者を責める心理の一つに、
公平世界仮説というのもあるらしいよ。
人はなぜ被害者を責めるのか|心理学ミュージアム
世界は理不尽であってほしくないという願望が心の安定に繋がるため、悪いことがあった人は
悪いことをしたからだという誤った思い込みをしたがる心理らしいよ。

う~ん、個人的には「ストレスの隔離」の方が説明としてしっくりくるなぁ。