2014年2月7日金曜日

音楽家森下唯氏の佐村河内守(新垣隆)騒動に関する分析が面白い

ピアニート公爵名義でピアノ動画をニコ動にアップもしている音楽家の森下唯氏が
佐村河内守(新垣隆)騒動に言及をしている記事が、やたら長いのだが面白い。
より正しい物語を得た音楽はより幸せである ~佐村河内守(新垣隆)騒動について~

かいつまんでまとめてみると、
・佐村河内守の曲を聴き、プロフィールを見たときに整合性がなくて嘘っぽいと感じた
・嘘つき野郎が作った曲にしては丹精込めて作られている「工芸品」のような曲に違和感を覚えた
・「工芸品」というのは「ロマン派」など、過去の書式にのっとるという制限を課して作られた作品という意味
・才能がある作曲家は過去の書式にのっとった作品作りなどしない。自分独自の音楽を作りたいからだ
・佐村河内守の曲は、作曲技法に長けたものがわざわざ書式の制限を課して作られた曲に思えた
・過去の書式をつぎはぎして作った曲のほうが売れる。大衆への耳触りがよいからだ
・つまり技法に長けた作曲家が、発注もなしに大衆受けする曲を「丁寧」に作っているという才能と動機のミスマッチを感じたということ
・佐村河内守が制限を課して、新垣隆がその制限内で曲を作ったという真相を知って合点がいった
・制限があるからこそ良い曲が生まれることもあるし、プロデューサーと作曲家がペアで曲を作るというスタイル自体はありではないか

という感じかと。
特に「制約があってこそその枠内で創意工夫を凝らして良いものができることだってある。」という
部分はたしかにそうだと思う。CM音楽とかが顕著な例だが、あれは15秒や30秒で人の心に残る
曲を作るという制限がなければ生まれ得ないような曲も多い。こういうのとか。


森下氏の言うとおり、プロデューサーが制限を課すスタイルはたしかにありかもねぇ。
才能のある音楽家がヒット曲(我々一般大衆の好みにあった曲)を作る方向に労力を向けて
くれるようになるかもしれない。

別の人の記事だけど同じようなことを言っているこのへんの記事も面白い。
またS氏騒動・長文多謝
偽ベートーベン事件の論評は間違いだらけ
佐村河内騒動で考える
2番目のリンクの記事とか、今回の作曲を詰将棋の出題に例えているのが面白い。
つまりプロの音楽家からすれば、あれらの音楽は既存の書式すぎてオリジナリティがない
ということみたい。これは共通見解なんだろうね。


アルカン すべての長調による12の練習曲 作品35

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