「いわゆる翻訳調のような日本語」に置き換えるところから翻訳はだいたい始まるものです。次にそれをほぐして解体し、もう一度自分の文章として並び替えます。原文の意味や味わいをできるだけ損なうことなく、生きた日本語に再構築していくわけです。それが翻訳の醍醐味であり、翻訳者の腕の見せ所になります。僕も何度も何度もその作業を繰り返します。納得がいくまで繰り返します。そのときに「原文の声に耳を澄ます」という作業が必要になってくるわけです。それから自分自身の文体みたいなものも必要になってきます。
これは!質問も回答もものすごくいいな!英文科の大学生が、自分の翻訳は翻訳調の日本語に
なってしまうのが悩みという質問に対する村上春樹氏の回答。「翻訳調の日本語」になることは
別に悪いことでもなんでもなくて、作業の過程で一旦はその段階を通ると。その後何度も何度も
生きた日本語にしていく過程で「原文の声に耳を澄ます」ということで、この大学生に足りないのは
センスではなくて、「段階」ということになるわけだ。第1段階で止まってしまっているということ。
そういえば、昔シドニーシェルダンっていう海外のベストセラー作家がいて、日本でもやたら
読まれたんだけど、その出版社が、自分らの翻訳の仕方を「超訳」って名づけてたんだよね。
そのやり方っていうのは、一旦翻訳調の日本語に訳した後、そこから今度は文学的センスのある人が
文学的に優れた表現に直していくという、つまり2度訳すというやり方をそう呼んでいたわけなんだけど、
村上春樹氏もまさにその工程を経ていたというわけだ。
第1工程だけこなして翻訳した気になっている人は、「翻訳は2工程存在する」という意識を持った
ほうがよいということだね。そして第2工程こそがプロの翻訳者として文学的センスの差の出る
「本番」なんだろうね。